40年前の随筆?

*スタッフ日常2010/6/16

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 こんにちは、最近は設計と積算中心の業務をしております、町田です。

暑くなってきました。肥満体の人間には、特につらい日々が、始まります?

今回は、趣向を変えたブログに挑戦しようと思います。「文章」のみです。

私が40年前に書いた「随筆」もどきです。お時間の無い方は「パス」して下さい。

 

 

           「新春の奥秩父

                          神奈川県立鎌倉高等学校2年スキー山岳部部長 町田 作    

  

 ここは小田急の藤沢駅の待合である。駅内は土曜の晩のせいかたくさんの人で混雑している。三~四組の少しいかれたカップルがこれからどこへ行こうかなど話しているのが目につく。出札口には寒そうに、またあわただしくコートの衿を立てた人たちがならんでいる。そして電車が着くと乗降客で駅内は一時あふれんばかりになる。

 (何時かな?)と駅の壁にかかっている大時計に目をやると、すでに九時を回っている。集合は八時四十五分だが、正敏と小宮はまだこない。今朝九時に鎌高に集合して腰越で買い出ししてパッキングしたが、その時僕は一時間ほど遅刻してしまった。それで、用心して八時半からここで待っているのだが……..。

 九時二十分頃やっと二人が現われた。でっかいザックを背負っているのですぐわかった。遅れた原因を聞くと小宮が肉を持ってくるのを忘れたとのことだった。

 

 車中で、少し眠けを覚えつつ今度の山行に関しての不安と期待の入り混じった何かが頭の中をうずいているのを感じた。

 新原町田で川崎工業高のS.Lの米倉と合流して、小林、小宮、米倉、町田のメンバーがそろったわけだ。「おい!!!三十分の遅刻だぞ」と米倉がブーブーおこっている。

 「しまった! 寝過ごしたぞ!!」とだれかがいったのでうつらうつらとしていたが目をさますとちょうど塩山を出たところだった。四人とも、だれかが起きているだろうと思っていたのだ。引き帰して塩山に着いたのは一時二十分だった。バスの待合所は屋根があるだけだ。寒気を防ぐものは何もない。背負子をほどいてシュラフを出すのが面倒くさいので、小宮から毛布を借りてその上にポンチョをかぶしてベンチに横になった。

 

 夜が明けて、たき火で暖を取りつつ弁当を食べてバスを待ったが、冬の時刻のためか新地平方面行きのバスはなかなかこない。「肉を忘れたり、寝過ごしたり、バスがこなかったり今度の山行は何かいやな予感がするなあ」「山に登るのをやめて温泉でも行こうか」etc...。みんな勝手なことをいって暇をつぶしたが、なおバスのくる気配がないのでハイヤーで新地平へ向かった。車の中から雁坂峠あたりに霧氷があるのが見えてきた。「見ろよ霧氷が見えるぞ!!霧氷が!!」正敏が興奮ぎみに言った。

 

 パッキングを直し各自適当に準備体操をした後、僕たちは氷った林道を離れて雁坂峠への道に入り少し行ってアイゼンを着けることにした。O.Bの菅間さんから借りてきた八つめを着けて間近にせまった霧氷の山々を見たら(冬山へ来たんだ)と実感がわいてきた。道は沢ぞいに続いている。小沢は白く氷り天然のすべり台ができている。空を仰げば今朝の曇空とはうって変ってすばらしく晴れ上がったその空が太陽の光に反射して、キラキラと光った霧氷の山々の向こうに広がっている。風が吹くたびに霧氷の雪がチラチラと降って来て、ほてった僕の体を冷やしてくれる。僕たちはいつしか山腹をジグザグに登っていた。国師から黒金山にかけての山容がどっしりとしている。あと峠までワンピッチの所で、前から調子悪そうだった米倉が足をつってしまった。米倉は少し休んでから行くというので、三人で先に行くことにした。道は峠までジグザグらしい。小宮も少し遅れてきた。正敏がどんどん登っていくので、先っきから足がつりそうだったが正敏にピッタリ着いて行った。やっと雁坂峠に着いた。稜線の南側(僕たちが登ってきた側)はスッキリと晴れているが、北側の稜線の下は南側からの強風のため吹雪のようになっている。しばらくして小宮がきた。写真を撮っていると米倉が顔をしかめて山腹を直登してきた。

 

 雁坂小屋付近は白一色の銀世界である。入山の連絡をしていなかったので番人はいなかった。後で判った事だが昨日山を下ったそうである。ストーブをたいて、さっそく甘酒を作って体を温めた。小屋には甲武信の方からバラバラに来た三人と僕たち四人だけだった。明日の朝食の用意をして、小屋の片すみに四人かたまって寝た。

 塩山での寝不足がたたって、一時間寝ぼうしてしまった。小屋から見る岩尾尾根、白石山方面の眺望は朝日に映え、個々のものが立体感遠近感を伴い、夢のような世界を作り上げている。八時二十分小屋を後にした。

 

 吹雪はじめた水晶の山頂で、なつかしの富士が見えた。やはり富士はどこから見ても良い山だ。雁峠付近で完全な吹雪になった。雁峠山荘で温度計を発見して、マイナス十一度に四人驚く。笠取小屋の手前で小宮の四つめが曲がった。米倉の予備のアイゼンとつけかえる。ピッチは全然あがらない。予定をかなり遅れて将監山荘に着いたのが夕やみせまる四時十分だった。小屋には番人と、去年から十何日単独行している人と僕たちだけだ。ストーブで夕飯をたきながら、しばし雑談にふけった。単独行の人は昨日、テントからシュラフまでびっしょりになってしまい避難して来たそうである。また、文明と遮断された山中にいて、番人が非常に現代的なことにびっくりした。

 きびしい自然と戦う男らしさほとんど何も拘束されない自由が彼にはあった。僕の予想される平凡な将来に比べて、山小屋の番人に非常に引かれるものがあることに気がついた。寒さは僕らの今までの常識をくるわせる。火から少しでも離しておくとなんでも氷ってしまうのだ。みかんもねぎもようかんもゲロッパキの中にほんの少し残っている水さえも氷らしてしまう。その晩は毛布を息苦しいほどたっぷりかけてもらい熟睡できた。

 

 朝、小宮が「マイナス十六度だぞ」と言った。またまたびっくりである。飛竜山でもめたが少し無理と思ったが僕がどうしても雲取山までいきたかたので、北天のタルで小宮と正敏は三条の湯に下り、僕と米倉は雲取を超えて、石尾根を下ることにして別れた。三条だるみまでハイピッチでがんばった。米倉が、雲取を超えて行けそうもないから三条の湯におりようと言い出したので、僕は一人空身で雲取山頂に向かった...。短いがきつい登りを登りつめると、そこは細長い頂上だった。そこには小鳥が五~六羽とからすが三~四羽、葉の落ちた木にとまったり、木々の間を飛んでいるだけでだれもいない。空は雲一つなく晴れ上がり、雪をいただいて連なっている南アルプスがすばらしい。富士山も......・奥秩父の山々は手に取るように望まれる。飛竜、笠取、甲武信、奥千丈.........。三百六十度の大展望を一人で独占してながめる気分はすこぶる爽快である。まだまだみあきぬ展望だったが、これから三条の湯に下り、おまつりまで林道を歩くことを考えると長居はできなかった。腹を補給して三条の湯を立ったのが四時少し過ぎだった。

 夕やみがせまった林道を二人で無心に歩き続けた。やがて真暗になり、ヘッドランプをたよりになおも歩き続けた。恐怖感が頭の中に忍び寄ってきた。もし一人だったら......。途中で車に乗せてもらい、バスの時間ぎりぎりで間に合った。氷川に着くと正敏が待っていてくれた。小宮は先に帰ったそうだ。コーラでのどを潤したあと、疲れた足と満足感をたずさえ、家路へと向かった。      (完)

 

 

 (エピローグ?) 山岳部の部長だった私は、しばらく発刊されていなかった「山踏」と言う山行記録やエッセイや俳句やらをまとめて、自分たちで自作するクラブの伝統の出版物を出そうと製作中であった。今の若い人には判らないと思うが「ガリ版印刷」である。これの為に書いた文章であったが、ある日同じクラスの新聞部の部長岡崎が、今度の学校新聞に載せる随筆の原稿が無くて困っていて、助けてくれと言うのであった。あまり深く考えずにこんなのあるけどと渡したのがこの文章。そして忘れた頃ある朝クラスに入ると、みんな学校新聞「日坂」を読んでいた。なんと第一面に私のこの文章が!!そんな青春の一ページを飾るエピソードです。(当時、高校では、冬山登山は禁止でしたが、本格的冬山ではなかったので、先生からの処罰はありませんでした。)

 


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